よそ者と当事者のあいだ

広島に移り住んで、5、6年になる。

妻の故郷。自分にとっては縁もゆかりもなかった土地である。

住み始めてしばらくして、地域活動に深く入り込むようになった。友だちも増えたし、責任ある仕事もまかせてもらえるようになった。外からだけでなく、中からも街のことを知るようになった。

この街の成り立ちに興味を持つようになった。

原爆が落ちて、そこから復興していく過程で、表には出てこない歴史をいくつも辿っている。その名残はいまも各地に残っている。

必ずしも目に見える形ではない。伝承として残っていたり、文化として残っていたりする。


目次

論文を読んで、引っかかったこと

ある論文を読んだ。

社会学の学術誌に載ったもので、原爆による被害が市内の地域ごとにどう違って現れたのかを、災害社会学の枠組みで分析したものだった。

論文の中で、対象になった地域の名前は伏せられている。ここでも伏せておく。

全部読んだ。その中に、引っかかる考え方があった。

災害が起きたとき、地域には被害を差異化する力と、被害を平準化する力の両方が働く。そして、その2つの力が拮抗し、相殺しあった結果として、被害の実態が現れる——。

差異化する力というのは、災害の前からあった格差や孤立が、そのまま被害の差になって出てくる力のことである。

論文が扱った地域は、爆心地からの距離が同じくらいの他の町と比べて、原爆による死亡率そのものは大きく変わらなかった。

だが、建物の全壊・全焼率と、住民の負傷率が高かったようだ。

木造家屋が密集していたこと。建物疎開が行われていなかったこと。仕事場が自宅だったため、原爆が炸裂した時刻に多くの人が町にいたこと。

このような事情が重なっていたらしい。

そしてこれらの事情は、どれも、被爆する前からその地域が抱えていた社会的な孤立と貧困につながっていた。

同じ理由で、その地域の人たちは残留放射能を多く浴びることになり、戦後は原爆症に苦しむことになったそうだ。

災害の前の状態が被害の大きさを左右し、その被害がまた新しい貧困と健康障害を生む。論文はそれを、履歴効果と累積効果という言葉で説明していた。

一方で、平準化する力も確かに働いていた。

その地域の人たちは、被爆の直後から、地域ぐるみで立て直しに動いている。論文はそれを「必須の生存戦略」と書いていた。

では、2つの力が拮抗した結果、その地域はどうなったのか。

戦後も、孤立したままだった。

論文の結びは、こうだ。地域の景観は大きく変わった。しかし被害の構造的な差異は、不可視化しながら持続した。

この一文が気になった。

読み始めた時点では、もっと違う結論を予想していた。

分断する力と平準化する力がぶつかって、広島は平準化の方に振れた。だから復興できた。そういう話だと思っていた。

でも、そうは書かれていなかった。

差異は、なくなったのではない。見えなくなりながら、続いた。

広島は独特な地域だと感じることがある。協調性を大切にする人が多い一方で、マイノリティの意見が封殺される危うさもあると、たびたび感じることがある(ただし自分は、必ずしもそれが悪いことだとも思えず、結論が出ていない)

この、なんとなく腑に落ちなかった感覚の正体が一体何だったのか。

それを整理するために、AIと30分ほどじっくりと対話をした。

テキストで質問を投げた、とかではなく、音声入力でのディスカッションをした。


災害ユートピアには、期限がある

分断と連帯という相反する2つの力が同時に働くとして、分断を乗り越えて「より良い社会へ向かう動き」の方を定着させるためには、何が必要だったのか。

返ってきた考察は、まず前提の確認から始まった。

レベッカ・ソルニットが提唱した「災害ユートピア」—被災地で一時的に立ち上がる、驚くほど利他的な共同体—は、あくまで一時的な現象である、と。

日常が戻るにつれて、構造的な差別や貧困が再び顔を出す。連帯感や善意は、長期間は持続しない。

そのうえで、良い方向のベクトルを定着させるために必要だったこととして、4つが挙げられた。

ひとつ、ユートピアの有限性を自覚した制度設計。

助け合いの気持ちが持続しないことを前提に、一時的な善意を素早く「制度」や「権利」に変換してしまう。被爆者援護法のようなかたちで、永続的なシステムに落とし込む必要がある。

ふたつ、意思決定における手続きの公正さ。

上から降りてくる復興計画は、社会的に弱い立場の人を排除しがちになる。当事者が意思決定のテーブルに座れているか。プロセスに納得感があるか。そこが分断を防ぐ鍵になる。

みっつ、橋渡し型のつながりを意図的に作ること。

同じ属性の人同士の強い結びつき(結束型)だけでなく、立場の異なる者同士をつなぐ緩やかな結びつき(橋渡し型)を、意識して構築する必要がある。

よっつ、隠された被害を可視化し、語り直すこと。

「みんなで平和を祈る」という単一の美しい物語は、その背後にある複雑な差別を覆い隠してしまう。それぞれが異なる痛みを抱えているという差異を認めたうえでの連帯でなければ、差別は固定化する。


広島の「結束」は、どこから来たのか

次に聞いたのは、広島の県民性のことだった。

広島は、人と人との結びつきが強い。一方で、外から来た人間に対しては、どこか排他的なところがある。

これは被爆に起因するものなのか。それとも、それ以前からの気質なのか。

考察はこうだった。広島の強固な結束は、戦前からの土壌の上に、被爆と復興の共有体験が上書きされて形成されたのではないか。

戦前からの土壌としては、安芸門徒と呼ばれる浄土真宗の強い信仰による講の結びつき。そして「軍都・広島」としての自負と誇り。

そこに、原爆という、他の地域とは共有しえない体験が重なる。

さらに、カープや平和記念都市といった独自のシンボルへの、強烈な感情の投影。

これらが混ざり合って、「自分たちで連帯して立ち上がるしかない」という、自己防衛的とも言える強い結束力が育まれた。

自分が感じていた「入り込みにくさ」は、排他性というより、内側の結びつきが強すぎることの裏返しなのかもしれない。


その結束が、覆い隠したもの

この強力な求心力は、広島の内部にある複雑な差異や差別を、均質化して覆い隠す負の側面を持った。

たとえば、在日コリアンの被爆者は、被爆者としての援護から長く排除されていた。慰霊碑も、長らく平和記念公園の外に置かれていたらしい。

指定地域から外れた「黒い雨」の被害者は、健康への不安を抱えながら、それを公に訴えることの難しさとも闘わなければならなかった。

そして、「世界初の被爆地」という強いアイデンティティを持つがゆえに、軍都としての加害の歴史や、内部の差別に向き合うのが遅れがちになる、という指摘。

「究極の被害者」というアイデンティティの死角。

大義名分に基づいた物語は、それ自体が悪いわけではない。ただ、その物語が強ければ強いほど、そこに入りきらなかった痛みは、見えなくなっていく。


強い結束は、平時に何を生むか

自分がこの土地で暮らしていて、なんとなく感じていたことを、そのままぶつけてみた。

インフラの整備が、どこか中途半端に感じられること。

革新的な変化が、あまり起きないこと。

一部の立場の人たちが主導して物事が決まっていく一方で、末端の市民に保障が行き渡っていない印象があること。

そして、組織のトップが誰であるかによって、その周辺の空気や方向性が大きく変わってしまうように見えること。

これは構造的な問題なのか。

返ってきたのは、「強すぎる結束型のつながりが、成熟期を迎えた地域社会にもたらす弊害の典型例」という整理だった。

同じ性質が、局面によって正反対に働く。

関係性の密さは、有事には「助け合いが早い」として機能するが、平時には「同調圧力が強い、出る杭を打つ」に転じる。

内部での情報伝達の速さは、裏返せば、外部の新しい情報や異分子を排除することでもある。

顔役の一声で物事が決まる意思決定は、速い代わりに、透明性がなく、既得権益が固定化しやすい。

インフラや土木工事が「惜しい」と感じられる背景には、内輪の利害調整が、街全体にとっての最適よりも優先されてきた歴史があるのではないか、と。

トップの資質で街が変わるという感覚は、近代的な「システム」よりも、前近代的な「属人的なネットワーク」が社会を動かしている証拠なのではないか、と。

原爆で公的なシステムが一度崩壊し、有力者を中心に寄り集まって生き延びた原体験がある。だからコミュニティの長への依存度や、その権威が、いまも色濃く残っているのではないか。

腑に落ちた。

自分が違和感として感じていたものは、悪意でも怠慢でもなく、この土地が生き延びるために必要だった仕組みが成熟しきった姿なのかもしれない。


よそ者であり、当事者でもある

最後に聞いたのは、自分に何ができるか、だった。

自分は他県から移り住んだ「よそ者」でありながら、地域の学校で役員をしていたり、有害鳥獣の駆除に関わっていたりする。中に入って動いている「当事者」でもある。

そして、同じ地域の中に、驚くほど風通しの良い組織と、なかなかそうはなっていない組織とが、並存していることも知っている。

そのちぐはぐさを、日常的に目にしている。

大きな変革ができるとは思っていない。ただ、半径2〜3メートルの範囲で、何かできることはあるのか。

返ってきた考察は、3つだった。

ひとつ、「良い属人性」を「良い仕組み」に翻訳すること。

「あの人がいるから上手くいく」という状態から、「こういう手順を踏むから上手くいく」という状態に変換する。決定のプロセスを透明化して、明文化する。

それ自体が、古いやり方に対する静かな対案になる。

ふたつ、境界にいる人間として、外の風を翻訳すること。

外の合理的なやり方を、そのまま正論としてぶつけない。「内側の論理」に翻訳して提案する。

「現場の負担が減る、楽なやり方がある」という形にすれば、内輪の利益として受け取ってもらえる。それが、橋渡しの第一歩になる。

みっつ、変えにくい構造に出会ったときは、小さな別回路を作ること。

正面から向き合って変えようとするのではなく、問題意識を共有できる数人と、非公式のつながりを作っておく。

いま何かが動くわけではない。ただ、時間が経って局面が変わったときに、健全な受け皿として機能する可能性がある。


結論は出ていない

読み返してみると、ずいぶん整理された言葉が並んでいる。

実際の自分の頭の中は、こんなに整っていない。

ただ、自分がこの土地に対して、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた理由の輪郭くらいは、少し見えた気がする。

排他的だと感じていたものは、内側の結びつきが強すぎることの裏返しだった。

物事が変わらないと感じていたものは、かつてこの土地が生き延びるために必要だった仕組みの、その後の姿だった。

そう理解したところで、明日から何かが劇的に変わるわけでもない。

ただ、最初に読んだ論文の、あの一文がまだ引っかかっている。

見えなくなることと、なくなることは、違う。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次